賞金王と呼ばれた男 第十八話 悪党の日常
よれたスーツを敢えてハンガーには掛けずにリビングのソファに放おった、神経質な白石は普段シワひとつ無いスーツにシャツを着用しているが、スカウトの時だけは安物のスーツと何の素材で出来ているのか全くわからない革靴、腕にはガチャガチャで出て来そうな陳腐な腕時計をしていた。
「パパー」
寝室で寝ていた好美が、しゃがんだ白石の首根っこに絡みついてくる、今年で三歳になる実娘のあまりの可愛さに気を失いそうだった。
「このみちゃん、パパの事待っててくれたの?」
「うん」
悪党にだって家族はいる、当たり前のように結婚して子供がいる方が多数派だ。
「もー、あとちょっとで寝る所だったのに」
妻の佳子がやれやれ、といった仕草で寝室から出てきた、シルクのパジャマにカーディガンを肩から羽織っている。
好美は寝付きが悪いらしく、妻は寝かし付けるのに毎日苦労しているようだ。普段帰りが遅い白石は娘の寝顔しか拝見する事が出来ない、今日は赤羽から直帰したので何時もよりかなり早い帰宅だ、お陰で好美と話す事が出来た。
「好美、もう寝るわよ」
「やだ、パパと遊ぶ」
ソファに座った白石の太ももに乗っかって動こうとしない好美を妻が叱ろうとする前に制した。
「まあまあ、たまには少しくらい良いだろ」
「もぅ」
頬っぺたを膨らませながら怒る妻は、贔屓目に見ても美しかった、そのままキッチンに入ると白石の晩酌の準備に取り掛かる。
プロ級に料理が上手い妻は、掃除、洗濯、子育てを何の文句も言わずにこなす、同僚の中には風呂掃除やゴミ捨ては旦那の仕事だの、家事は折半だの宣うゴミのような嫁がいるらしいが白石には考えられなかった。
男は毎日、外で家族を養うために全力で戦っている、戦い疲れて帰宅した戦士に家事をやらせる――。一体何を考えているのだろうか。
そんな不遇な待遇を受けているにも関わらず、へらへらと嫁は怖いから、などと口にしているヤワな男をみると根性を叩き直したくなる。
ダイニングテーブルに座ると、キンキンに冷やされたグラスと冷たい瓶ビールが出てくる。
流石分かっている、ビールとグラスが冷えているのは当然だ、しかし瓶まで用意できる妻は中々いないだろう、処理に困るし、何より重い。
極端な話、冷やしてしまえば瓶だろうが缶だろう分からないかも知れない。しかし瓶の方が美味しいに違いない、旦那に少しでも美味しいビールを飲ませてあげたい、と思う彼女の心意気が味を何倍にもするのだ。
「好美もジュース飲むー」
白石の隣にチョコンと座った娘は足をぶらぶらさせながら上目遣いで懇願してくる、かわいい、こんな可愛い子にお願いされて断れる人間なんているのだろうか。
「好美はだめよ、おねしょするから」
「しないー、してないー」
本当だよ、した事ないよ、と白石に訴えかけてくる。この年にしてすでに女なのだろう、恥じらいがあるようだ。
冷奴に揚げ浸しのナス、ひじきにほうれん草のお浸し、中年の白石の体の事も考えられたツマミが次々に並ぶ、どれも完璧な味付けだ。
「ご飯食どうする、良いお肉あるけど」
カウンターキッチンから妻が訪ねてきた、もう少し飲んだらお願いするよ、と頼むと駄々をこねる好美を寝室に無理やり連れて行った。
名残惜しいがあまり自分勝手な事は言えない、子育ては妻に全て任せてある。
『三万円だしますよ』
クククッ、白石は佐藤のセリフを思い出すと声を出して笑った、とんだお人好し、いや、あれは単なる見栄っ張りだな。
あの手の人間は懐柔しやすい、情に訴えかければ直ぐに協力するだろう、自分の為より人の為、自己犠牲の精神は悪党達の餌にしかならない。
しかし――。
途中で現れた、佐藤の知り合い、確かタケシと呼ばれていた、あの男は油断ならない。あれは人間を鼻から疑ってかかるタイプ、言わば我々の側の人間の雰囲気を漂わせていた。
「意外に直ぐに寝たわ」
寝室から戻ってきた妻が横に座ると、ビールを酌してくれる。
「佳子も飲んだらどうだ」
「じゃあ、いただこうかしら」
キッチンからグラスを持ってくると手酌でビールを注いで白石と乾杯した。
「今日は営業だったのね?」
ソファに放ったスーツに目をやってから、妻が話しかけてきた、新規営業の時は安いスーツ、商談の時は高級スーツと妻は理解している、もっとも商談とは闇競艇の事だが本当の仕事など妻は知らない。
闇競艇の時に高価なスーツを着用するのは当然だろう、一億以上の金を賭ける人間が安い格好をしている筈がない。新規営業の時に見窄らしい身なりにするのは『ヘルメス』はあくまでも慈善団体、選手を護る為に存在する非営利団体なのだ、儲かっているような振る舞いはNGだ。
もっとも、本当に選手から徴収した資金だけで運営していたら、資金はすぐに底をつくだろう。そういった意味では嘘は無いと言えた。
「ああ、何とか契約出来たよ」
白石は家賃とは別に生活費として毎月、百万円を妻に渡していた、一般的な家庭からすれば破格の金額だろう。しかし、妻が美しさを保つ為、娘が最高峰の教育を受ける為には仕方がない。
闇競艇で使用する資金は当然、組織から提供されたものだ。当たり前だが勝った金が白石に転がり込む訳では無い、どの道、闇競艇で稼いだ金などそのまま表に出す訳にはいかない。
資金洗浄された後に組織の人間に振り分けられているのだ、現在幹部の直ぐ下にいる白石の年収が一億なので、上の連中はその数倍と見込んでいる。
「そうなんだ、さすがコウちゃん」
娘がいない時、妻は白石をあだ名で呼ぶ、|行燈《あんとん》とした世界に身を埋めている人間としては家で家族と過ごしている時だけがまともな思考を蘇らせる。
「そろそろ、二人目が欲しくないか」
暗に夜の営みを提案すると、照れ笑いを浮かべながら妻は頷いた。
「じゃあ、シャワー浴びてくるよ」
すぐにでも妻に飛び掛かりたい欲求を我慢して浴室に向かった。
「コウちゃん、ご飯はー」
「後で食べるー」
背中で返事を返すと「もー」と妻の嬉しそうな声が耳に届いた。
悪党にだって家族はいる――。
家族を護る為なら何だってするだろう、ある意味では一般の人間よりもその想いは強いかも知れない、それはきっと自分が行なっている悪事を認めているからに他ならない。
賞金王と呼ばれた男 第十七話 想い
「あら、絵梨香ちゃん、今帰り?」
大学院の帰り道、佐藤の実家の前を通ると涼子に声をかけられた、わざわざ佐藤の家の前を通りがかった訳ではない、駅から自宅までの帰り道に佐藤の実家があるのだ。
「あ、おばさん、こんばんは」
自転車の後ろカゴにはスーパーの袋が積まれていて、長ネギが二本飛び出していた。
「そうなんですよ、今日はすき焼きですか」
長ネギだけのヒントで当てずっぽうで言ってみた、そう言えば今日はお昼も食べ損ねて、お腹が空いている。
「良くわかったわね、さすが東大生、ねえ、ご飯食べて行きなよ、買いすぎちゃった」
大量のすき焼き肉を涼子は掲げた、弟の武志は寿木也とご飯に行くと言っていたから、おばさんとおじさん、直子姉さんの三人か、確かに買いすぎな気がした。
「良いんですかー、お腹ぺこぺこ」
渡に船とはこの事だ、しかし寿木也が在宅していたら断った所だろう、先日の病室での出来事以来、音沙汰がない。
「ほら、入って入って」
見慣れた三階建の一軒家に入っていく、一階のリビングではおじさんと直子さんがプロ野球を観ながら談笑していた。
「あれ、えりちゃーん」
直子さんはソファから立ち上がるとハグをしてきた、相変わらず整った顔立ちはすっぴんでも美しい。
「久しぶりだねえ、絵梨香ちゃん」
すでにビールを飲んでいるおじさんが笑顔で話しかけてくる、昔から感じていたが、ソックリだ。寿木也が歳を重ねたらおじさんになるだろうし、おじさんが若い頃は寿木也だったであろう。
「おばさん、手伝いますよ」
流しで手を洗うとすき焼きの材料を袋から出して丁寧に切っていく、勝手知ったる他人の家。
中学生くらい迄は毎日の様にこの家に通っていた、単身赴任の父親の様子を見に、母が家を開けた時は佐藤家にお世話になり何日も泊まっていった。
もちろん絵梨香は直子の部屋で寝て、武志は寿木也の部屋で寝たが、同じ屋根の下で寝ているという事実に眠れない夜を過ごした。
「ありがとうね、直子は全く料理出来ないから、助かるわあ」
「いえいえ、直子さんはいるだけでその場が明るくなりますから」
「まあ、可愛い」
後ろから胸を揉んできた直子が、あまり成長してないわ、と失礼な発言をしているが全く腹は立たない。
寿木也はもちろん、この家の人がみんな好きだった、カッコいいお姉さん、優しいお母さん、すけべなお父さん。
この家にお嫁にくる――。
いつからそう考え始めたか忘れたが、それは絵梨香に取って決定事項の様に思えた。
『絵梨香が好きだ! 結婚しよう』
小学校五年生の時にされた公開プロポーズ、絵梨香は顔を真っ赤にしながら確かに「うん」と頷いた。
それから、中学校、高校と絵梨香は待っていたがあの男は全く約束を果たそうとする動きを見せなかった、とはいえ小さい頃から野球に夢中だった寿木也は毎日野球漬けで遊ぶ暇もない、仕方なく甲子園までは待つ事にした。
野球部を引退して、さあコレからと思った矢先に「ボートレーサーに俺はなる」と言い出して、一年間の合宿に行ってしまった。
自慢じゃないがモテる方だ、高校時代など何人からアプローチされたか分からない、それでも誰一人として付き合わなかったらのは寿木也を待っていたからに他ならない。
「肉を焼くから、すき焼きなんだよー」
おじさんがいつの間にかすき焼きの鍋を用意すると卓上コンロに火をつけた、牛脂を菜箸で溶かしながら肉を焼いていく、程よく焼けた所で割下を投入した。「じゅじゅー」っと肉の焼ける音と割下の甘い香りが部屋に充満していく。
絵梨香が切った野菜をテーブルに運ぶと、生卵を割った小皿におじさんが肉を盛り付けてくれた。
「はい、絵梨香ちゃん」
「わーい、おじさん、ありがとう」
遠慮なく生卵に浸かった牛肉を口に入れた、程よいサシが入った上等な肉だった、佐藤家は食べ物にかなり拘りがある家なのだろう、どの家で食べるよりもご飯が美味しかった。
「えりちゃん、ビール飲むでしょ」
直子さんは冷蔵庫から缶ビールを取り出すと、絵梨香に手渡した。
「ありがとうございます、お肉美味しー」
素直な感想を述べるとおじさんは目を細めて頷いた、その仕草があまりにも寿木也にそっくりで一瞬ドキッとした。
「今日は寿木也は休みじゃないの」
ビールを一息で飲み干すと直子が聞いてきた。
「うちの武志と一緒です」
お互いに弟を持つ長女という事で、直子とはすぐに仲良くなった、比較的男子にも奔放な彼女は良いメンズがいるから、と紹介しようとしたが絵梨香はのらりくらりと、かわしていた。
「悪巧みの匂いがするわねぇ」
腕を組んで真剣に発言するおばさんは、転校してきた頃と殆ど見た目が変わっていない。
テレビではジャイアンツの四番がチャンスの場面で三振した、おじさんと直子は罵詈雑言をテレビに浴びせると再びすき焼きに手を伸ばす。
北海道にいる時は野球など見た事も無かった、それが東京に転校して数日、突然、武志が少年野球チームに入りたいと言ってきた、インドアなオタクが珍しいと思ったが、どうやら寿木也の影響だ、人付き合いが苦手で引っ込み思案、武志が唯一心を許しているのが佐藤寿木也だった。
「絵梨香ちゃんは彼氏とかいないのかい」
唐突におじさんが訪ねてきた、まさか二十二にもなって誰とも付き合った事が無いなんて言えない。
「えー、と、今はいないです」
「はー、こんな美人なっかなかいないけどねぇ、最近の若い男は軟弱なのかねえ」
「美人だから吊り合う男が中々いないのよ、私みたいにね」
どうやら直子にもお付き合いしている人はいない様だ、少しだけ安心した。
三本目のビールを飲み終わる頃には既に軽く酔っていた、するとズボンのポケットに入っていたスマートフォンが震えた。
『おつかれ、今週時間あれば一泊で温泉でも行かないか』
一瞬、目を疑った、差出人を何度も確認するが何回見ても佐藤寿木也と表示されている、絵梨香はスマートフォンの画面を直子に見せた。
「えー、そうなの、二人って」
直子は驚いた表情でコチラを見つめている、おじさんとおばさんは既に食べ終わり、ソファで寛いでいた。絵梨香は急に恥ずかしくなり耳まで真っ赤になった、するとスマートフォンを奪って直子がメッセージを打っている、あっ、と思った時には手遅れですでに送信された後だった。
「応援してるからね」
おそるおそる、送信された内容を見る。
『うん、もちろん行く、楽しみにしてるね♡」
絵梨香は軽く目眩がしたが、寿木也と二人で初めての旅行を想像すると、にやけた顔を隠すのに必死だった。
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賞金王と呼ばれた男 第十六話 約束
佐藤が赤羽駅の駅前に着くと、すでに武志が待っていた、細身のブラックスーツを着用していてスラリと背が高い、黒い髪はオールバックに撫でつけ、鋭い目がシルバーフレームのメガネの奥で光っている。
傍から見たらインテリヤクザの様な風貌は、誰も彼に近寄らせない雰囲気を漂わせていた。
「怖いよ武志」
「あ、お疲れ様です、怖いとは」
「見た目だよ、なんでスーツなんだよ」
「すみません、この後、仕事が入ってまして」
「まあ良いや、飯どうする?」
「そうですね、贅沢を言えば寿司が良いですね」
「寿司かぁ、このあたりだとあまり良い店が――」
そこまで言って星野屋の存在を思い出した、寿司の味がそこまで分かるわけではないが星野屋の料理は驚くほど美味かった、しかし莉菜と気まずい関係になっている時に行っても良いものだろうかと佐藤は思案する。しかし、もしかしたら仲直りのキッカケになるかも知れないと思い足を運ぶ事にした。
「ああ、ここですか、赤羽にしては高級そうな外観がミスマッチですよね」
「味は保証するよ」
既に営業中のお店の格子戸をカラカラと開けると莉菜の親父さんの威勢のいい声が聞こえてくる。
「いらっしゃい、って、あれ、佐藤選手じゃねえか」
目の前に座る老夫婦に寿司を出しながら声をかけてきた、どうやら彼女と険悪になっている事は聞いていないようだ、最も父親にそんな報告をする娘がいるとも思えないが。
「先日はご馳走になってしまったので、今日はちゃんと払わせてください」
「なに言ってやがんでい、そんな事、若者が気にすることねえよ」
「いえいえ、逆に次から来にくくなってしまいます、僕すごくこの店気に入ったので」
「かー! 聞いたか母ちゃん、若いのに礼儀までしっかりしてやがらあ」
親父さんにお願いして座敷の席に座らせて貰うと、二名分のおまかせ料理と生ビールを頼んだ。
「これから仕事なのに大丈夫か」
「ええ、どうせ酔っ払いが相手の仕事です」
すぐに熱々のおしぼりと突き出し、生ビールが運ばれてきた、小柱とキュウリの和え物にとびっ子が乗っている、一口食べた武志が目を剥いた。
「うまっ」
佐藤は笑顔で応えると突き出しに手を伸ばした、本当に美味い、突き出しに手を抜く店は信用できない、一番最初に口にする料理がまずかったらその後の信頼度も大きく下がるだろう。
「あれから色々分かりましたよ」
生ビールを煽りながら武志が呟いた、座敷に他の客はまだいないが、声のトーンを落としているのは聞かれたらまずい話だからに他ならない。
武志はカバンの中からファイリングされたA4用紙を取り出すと、佐藤に手渡してきた、イカサマの可能性に思い至った経緯を武志はわかりやすく説明してくれた。
「そこで直近三年で怪しい動きをしていた人間を、ランキング形式で抽出しておきました」
A4用紙には個人名の横にポイントが付いている、武志独自の採点方法で点数化したのだろう、流石に仕事が細かい、思いの外多い名前に辟易していると、一番上に記載されているポイントランキング一位をみて硬直した。
「小峠さん……」
そう呟いた所で莉菜の母が刺し身の盛り合わせを運んできた、その切り方を見て前回との違いにすぐ気がついた。
「佐藤くん、ぶ厚いの苦手でしょ」
その通りだ、佐藤は刺し身は好物だが、やたらと厚く切られたマグロやブリ、店からすればサービスなのだろうが薄く切るのが好みの佐藤にはありがた迷惑だった。
「ええ、でもどうして」
「食べてる所を見れば分かるんだって、お父さん」
佐藤は親父さんの方に目をやると真剣な眼差しで慎重に何かを捌いている、どんな世界にも一流の人間が存在するが、ここの親父さんもまたその一人なのだろう。
莉奈の母が席を離れた所で再びファイルに目を落とした、知った名前と聞いた事もない様な名前がランダムに並んでいる。
「この名簿の全員が怪しいと?」
佐藤が小声で尋ねるとビールを飲む手が止まり首を横に振った。
「いえ、あくまでも怪しい動きをした回数が多い人間のランキングです」
そう言うと、武志はランキング二位の男を指差した。
「例えばこの男、勝率3.15のB2選手です、ところがA1級のタースピードで旋回したデータが三年間で八十二回、偶然上手く回れた――、にしては多すぎます」
佐藤は武志の話がすぐに理解出来なかった、イカサマの常識として上位級の選手がわざと負ける事で成立する物だと勝手に解釈していたからだ。
「えっ、じゃあコイツは実力があるのに普段はわざと下手くそなフリをしているって事か」
武志は軽く頷いた後に「その方が欺き易いですよ」と呟いた。
佐藤は刺身をつまみながら考えを巡らせる、確かに上位級の選手がワザと負けたり、スタートが遅れたりすると不自然に思われかねない、しかし下位の選手が素晴らしいターンをしたならどうだろうか――。
「賞賛されても疑われる事はないな」
「ええ、僕もそう思います」
佐藤はファイルを捲りもう一枚の紙に目を落とした、何やら暗号のような文字列の横に矢印が付いていて、その先に数字が書かれている、察するに暗号を解読した物だろう。
『0215』
『0217』
それでも何の事だか皆目検討が付かないので武志に尋ねた。
「これは?」
武志はさらにボリュームを絞り、正面にいる佐藤にギリギリ聞こえるトーンで話し始めた。
「ヘルメスのホームページに不自然な暗号文を見つけたので解析しました」
推察ですが、と念押しすると武志は数字の羅列について解説してくれた。
「これはイカサマを実行する日付ではないでしょうか」
イカサマをする為には選手と接触する必要がある、しかし保険屋の人間がそう度々選手と会ってるのは確かに不自然だ、では電話やメールはどうだろうか。
「まず僕なら、証拠が残るような連絡方法は取りませんね」
「メールとかラインでは、後々証拠が残るな」
「電話も録音される恐れがありますのでNGです」
「じゃあ」
「やはり直接会います、盗聴器などがないように身体検査をした上で土手でも歩きながら伝えますね」
しかし『ヘルメス』ではそれよりも安全かつ手間が掛からない方法として、自社のウェブサイトに隠し暗号を用いて選手とコンタクトを取る方法を採用しているのではないかと武志は読んだ。
「まず、ホームページのソースを見る人間がいません、さらに万が一見に来たとしても暗号化されていて何の事だか分からない」
その上、暗号は数時間で削除されてしまうようで証拠も残り難いと武志は付け加えた。
「どうしますか?」
どうしたら良いのか佐藤には分からなかった、その様な集団が実在しているとして、何故自分に近づいて来たのか。小峠が本当に詐欺に加担しているのか。
右手の違和感、絵梨香の奇行、莉菜との関係、詐欺師集団、いつの間にか山積みになった問題をどれから解決すれば良いのか頭がいたくなった。
「少し様子を見てみるよ」
「わかりました、暗号が入ったらその都度、連絡します」
「ああ、悪いな」
「いえ、それより姉貴と何かありました?」
頭を抱える四大問題の一つだ、佐藤は先日、病室で起きた出来事をかい摘んで話した。武志は声を殺して笑っているが佐藤に取っては笑い事ではない。
「ついに実力行使に出たわけですね」
「俺はあいつが何を考えているか、全く分からないよ」
運ばれてきた握りを見て武志は目を輝かせている、普段感情を表に出さないこの男も自分の姉と、美味い飯には反応するようだ。
「寿木也さんも、大概ドンカンですからねえ」
ウニを口に運ぶと、武志は恍惚の表情を浮かべている、ウニからいくタイプか、佐藤は卵を素手で掴むと口に放り込んだ。
「一度、ちゃんとデートしてやってくれませんか」
武志がイクラに手を伸ばした、コイツ好きなネタから食うタイプだな。
「絵梨香と? ちょくちょく買い物に行ったり、飯を食いには行ってるけど」
「姉貴から強引に誘われてですよね、もっとデートっぽい、そうだなあ、夢の国とか、温泉旅行とか」
佐藤から誘ってくれと武志は言う、それが今回の仕事の報酬ですとお願いされては断るわけにもいかない、これからも武志の能力は必要不可欠だ。
「じゃあ、はい、今連絡してください」
テーブルに置いてある佐藤のスマートフォンを手渡してきた、しかし目線の先には佐藤のウニがある、佐藤は慌てて口に放り込んだ。
「え、いまから?」
当然ですとばかりに頷いている、佐藤は瞬時に考えを巡らせた、夢の国――。ネズミがモチーフのあの遊園地は佐藤がもっとも嫌いな場所だった。乗り物が嫌いな上に何時間も待たされる、挙句の果てに五分ほどで終わる、考えられない。
温泉旅行――。
うーん、と佐藤は考える、温泉は好きだしのんびり出来る、もしかしたら右手の違和感にも効能があるかもしれない。
とは言っても、流石に二人きりで温泉旅行ってのは、そもそも絵梨香が行くとは思えなかった。
佐藤は形だけでも誘えば武志への義理が果たせると考えて、その場でスマートフォンを操作した、絵梨香へメッセージを送る。
『おつかれ、今週時間あれば一泊で温泉でも行かないか?』
メッセージ画面を武志に見せるとその場で送信した、いくら幼馴染でも男と二人で旅行なんて行かないだろう、そう高を括っていたが返信はすぐに来た。
『うん、もちろん行く、楽しみにしてるね♡』
行くのかよ――、しかも何だこのハートマークは、何か変なものでも口にしたんじゃないか、心のなかで突っ込みながらスマートフォンの画面を武志に見せた、何がおかしいのか声を出さないようにして笑っている。
「いやー、いい仕事しましたよ」
そう呟くと、最後に運ばれてきた赤だしとかっぱ巻きを口にする、何気なく口にしたかっぱ巻きが相当美味かったらしく、武志はこの日何度目か分からない控えめなガッツポーズをテーブルの下でした。
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賞金王と呼ばれた男 第十五話 天才
進藤武志は八畳程の薄暗い部屋で二台のパソコンを自在に操ると自己流で学んだプログラムを組んだ。そこに映像データを読み込ませて、まずは過去三年間で成績に不釣り合いなラップタイムを出した人間を抽出した。
例えばA級選手にも関わらず明らかに遅いターンスピード、逆にB級選手なのに速すぎる人間を映像解析から自動で抽出していく。
次にフライングをした人間の中から内側の選手を潰して外側に勝たせた人間、明らかに遅いスタートで隣の人間を勝たせた人物をピックアップする、前者と後者を行った人間にポイントを振り分けてランキング形式で表示させる。
「これは……」
考えていた以上に偏った数字と、一番上に出た名前を見て驚いた武志はこの時点ですでにイカサマを確信していた、もっとも佐藤は何も知らない様子だったが。
佐藤から白石の話を聞いた瞬間に、詐欺集団の可能性にたどり着いた、ボートレーサーの総数は凡そ千五百人、多く見積もってその半数の人間がこのインチキ保険会社に加入していると仮定する。
一人一万円だから七百五十万円、最低額だからもう少し多いと読んで月額九百万円、年間で一億ちょっと。
こんな資金でパンフレットに書かれているような補償を行っていれば会社は直ちに赤字経営になるだろう、つまり――。
この会社には別の目的が有る、わざわざこんな会社を作って隠れ蓑にするぐらいだからどうせやましい事に決まっている。
ギャンブルでやましい事=イカサマ
武志は兼ねてから公営ギャンブルのイカサマについて興味を持っていた、行政管轄で行われている以上、詐欺師集団の政治家達が清き運営をしているとは到底考えられない
膨大なデータ抽出を武志はほんの数時間で終わらせた、と言ってもプログラムを組んでからは全自動なのでパソコンの前で座っているだけだが。
進藤武志にはどんなプログラミングも自在に操る事が出来る特殊能力があった、常人には理解出来ないだろう、絶対音感の人間が日常の音がドレミに聴こえる様に、瞬間記憶能力者が見た物を写真の様に記録出来る様に、武志は感じたままにプログラムを組む事が出来た。
この能力があればどんな一流企業にも引っ張りだこだし、独立しても成功する事を理解した上で武志は赤羽でキャバクラのキャッチをしている。
なぜ人はキャバクラに行くのか――。
例えば銀座のクラブの様に大人の社交場としてビジネスに直結するような場所ならまだしも、赤羽のキャバクラでは散布以外に何の目的があるのだろうか、武志には理解出来なかった。
世の中に理解出来ない事があまり無い武志は赤羽のキャバクラに興味を持った、その足で面接を受けると次の日から夜の街に立った。
酔客、酔客、酔客、右も左も夜の赤羽には酔っ払いが溢れている、彼らは千鳥足になりながらも、キャッチに声をかけられると吸い込まれる様にキャバクラの箱に入っていった、武志の謎は深まるばかりだったが意外にもキャッチの仕事は楽しかったので自分に合っているのだろう。
パソコンのキーボードを叩いて検索をかける。
『社団法人 ヘルメス』
表向きは至ってまともな法人のホームページに見えるが当然だろう、わざわざイカサマ詐欺集団と認める様な作りにする訳がない。
武志はホームページのソースを覗くと違和感に気がついた、ウェブサイトを構築するHTML以外に妙な言語が混じっている、暗号化されている様で解読は出来ないが明らかに不自然だった、そう感じたのは武志の特殊能力と無関係ではないので普通の人間ならスルーしてしまう所だろう。
単に制作者の悪戯か、ミスかもしれないが念のために今から二十四時間、常時ヘルメスのホームページソースを監視するプログラムを組んだ、これで一語でもサイトに変化があれば武志に通知が来る。
一息つこうとシルバーフレームの細いメガネを外してデスクに置いた、左手で目頭を揉むと冷めたコーヒーに手を伸ばす。
するとコンコンと扉がノックされる、返事をする前に姉の絵梨香が入ってきた。
「よっ、暇人、飲みいかない」
この状況を見て暇だと本気で思っているのだろうか、真意は掴めないが彼女が何か相談事が有ることは分かった。
「悪いけど、やることがあるから」
「そんなの後にしなさいよ、焼肉奢ってあげるから」
余程切羽詰まっているようだが、まだ終える訳にはいかない。
「寿木也さんに頼まれてるんだよ」
「えっ、何を」
声色が変わった、わかりやすい人間だ。
「仕事の保険関連、なんか怪しい会社だったからさ、寿木也さんも人が良いから、すぐに騙されるよ」
「ふーん、あいつに会ったの」
「ああ、ばったりね」
「何か言ってた」
「何かってなんだよ」
「いや、なんでもない、あっそ、じゃあね」
そう言うと彼女は踵を返して出ていった、姉が佐藤を好きな事は分かっていた、おそらく小学生の頃から――。
好きならさっさと告白してダメなら次に行くほうが効率的なのに、武志には全く理解出来なかったが、そもそも女にあまり興味がない武志は恋愛自体が時間の無駄と考えていた。
基本的に自分以外の人間はすべて馬鹿だと思っていたが佐藤寿木也だけは違った、学力と言う意味では圧倒的に勝てる自信があるが人間力では到底叶わない。
北海道から東京に転校した初日に、一学年下の武志の教室にやって来た佐藤は、姉貴との仲を取り持つ様にお願いしてきた、小学五年生とは思えない行動力と思考だ。
『経験は思考から生まれ、思考は行動から生まれる』
ディズレーリの言葉を地で行くような男だ、しかし北海道から転校してきた色白メガネの武志は上級生が訪ねてきた事で同級生には一目置かれた、おかげで虐められる事もなく穏やかな学校生活を送る事が出来た。
再びメガネをかけてスマートフォンを手に取る、ラインを起動して佐藤にメッセージを送った。
『例の件ですが調べ終わりました、僕の考えが正しければ、あの会社はイカサマ詐欺集団のダミー会社ですね』
コーヒーを淹れ直そうと席を立つとデスクがガタガタっと震えた、スマートフォンが震えている、液晶を確認すると佐藤からの着信だ。
『もしもし』
『悪いな、話が全然見えない、今週いっぱいコッチにいるから少し時間貰えるか? 焼肉でも食いに行こう』
『そんな気を使わなくて良いですよ、それより姉貴を――』
『え』
『いえ、何でもありません』
『ああ、絵梨香の事も少し相談があるんだ』
『なんでしょうか』
『まあ、会った時に話そう、また連絡する』
『わかりました』
切れたスマートフォンを見つめながら武志は考えを巡らせる、姉貴の事で相談――。
積年の想いがようやく届いたのだろうか、別にシスコンな訳ではないが家族の幸せくらい武志も願っている。少しでも姉貴に有利になるように話を持っていってやるか、と考えるとパソコンの電源を落としてベッドに倒れ込んだ。
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賞金王と呼ばれた男 第十四話 勧誘
競艇のレースにはグレード(ランク)があり一番低いレースから一般戦、G3、G2、G1、SGとなる。佐藤クラスの選手になるとお盆や正月、ゴールデンウィークに開催される地元の一般戦以外は殆どがG3以上のグレードレースの出場になる。
すると自然に場所は違えど斡旋される面子は似たような顔ぶれになる、師匠の小峠、兄弟子の桐野もA1選手の中でもさらに上位の成績の為、三人は度々同じ場で時間を過ごした。
「小峠さん、女が何を考えてるのか自分には理解出来ないっす」
明日からのG1レースの為に長崎県は大村のボートレース場宿舎で、小峠と暇つぶしにオセロをしていた。
「はぁ?」
「結婚してますよね、小峠さんは」
「ああ、まあな」
なぜだ、こんなハゲでも結婚出来るのに、佐藤はG1で優勝するよりも結婚する方が遥かに難しいのではないかと本気で考えていた。
「あ、そうだ」
小峠は思い出したかの様に鞄を漁るとパンフレットの様な物を取り出した。
『一般財団法人 ヘルメス』
「若いお前にはまだ必要ないと思ってたんだがな、今回みたいな事故もある」
パンフレットの表紙には競艇界の王者、新庄朋也が笑顔でコチラを見ていた。
「なんすかこれ、新庄さんじゃないですか」
「まあ、保険みたいなもんだ」
パラパラとページを捲ると競艇選手が病気や事故で出走出来なくなった場合の保証、引退した後のケアなどが綴られていた。
「へー、こんなんあったんすね、いくらですか」
「一万円からだ、上限はない、額によって得られる保証は同じだ、選手同士の助け合いだな」
小峠は正方形の盤面を睨みつけているが、すでに黒に占拠されていて逆転は不可能に思えた。
「小峠さんも入ってるんですか」
「ああ」
「いくら入れてんすか」
「まあ、十万だ」
諦めた様に空いているスペースに白い石を置くと挟まれた黒い石を一つだけひっくり返す。
「すげー、さすが」
「フライング休みの時に助けられてな、興味があれば紹介してやる」
確かに競艇選手に明日の保証はない、もちろんどんな仕事でも同じだろうが怪我と隣り合わせ、成績によっては首もありえる業界では将来の不安は付きまとう。
「引退してからの就職先なんかも面倒みてくれる」
先程、白に変わったばかりの石を直ぐに黒くすると小峠は投了した。
「小峠さん、引退するんすか」
「しねーよ、例えばだよ」
「わかりました、じゃあ入ります」
「お前、もう少し考えろよ」
「一万円だし、小峠さんも入ってるなら」
師匠の小峠を佐藤は誰よりも尊敬していた、レースに臨む準備、華麗なテクニック、空気抵抗の無い頭――。
「ああ、じゃあ今度、担当の白石さんに言っとくよ、それよりお前左利きだっけ」
佐藤が先程からオセロを左手で置いている事に小峠は気が付いた。
「いや、聞き手じゃない方も使う事で身体のバランスが良くなるみたいです、メジャーリーガーが言ってました」
「ほー、今回はどうだ、大村はあまり走り慣れてないだろう」
「ちょっとエンジン不味いの引いちゃったんで」
あまり知られていないが、選手が乗るボートとエンジンは大会毎に抽選で決められる。精密に作られたエンジンだが個体差が激しく、どのエンジンを引くかはレース結果を大きく左右する。極端な話、真っ直ぐに走るだけで、良いエンジンと悪いエンジンでは一艇進以上の差が開く、これではいくらテクニックがあってもどうにもならない。
「はは、まあ怪我明けなんだから無理するな」
「おっす」
右手の違和感を佐藤は誰にも話していない、左程レースには影響があるとは思えなかったからだ、しかし大村での六日間開催で佐藤は一度も勝利することがなく予選で敗退した――。
次節は一週間後の平和島の斡旋が決まっている佐藤は一度赤羽の実家に戻ってきた、小峠から紹介された白石が赤羽まで出向いてくれると言うので日程を合わせて待ち合わせをした。
夕方の六時に駅前で待っていると、ロータリに一台の軽自動車が入ってきた、普通免許も持っていない佐藤は車に興味がない、それにしても白石の乗る車はボロボロで悲惨な外観をしていた。
「佐藤選手すみません、お待たせして」
運転席の窓を開けると三十代くらいの人の良さそううな男が車内から声をかけてきた。
「あ、白石さんですか」
「はい、どこか喫茶店でも、とりあえず乗ってください」
ペラペラのドアを開けて助手席に乗り込むと、車は大袈裟なエンジン音を立てて走り出した。
「すみませんねえ、お忙しいのに」
「いえ、今週はオフなので、こちらこそ赤羽まで来てもらって申し訳ありません」
「いえ、とんでもない、あ、そこの駐車場に止めちゃいますね」
軽自動車を赤羽駅南口のコインパーキングに止めると、ファストフード店に入った。
「すみません、こんな場所で、なにせ予算が少なくて」
冬なのに額に汗をかいているタレ目の男は誰が見ても人が良さそうな外見をしていた、保険の勧誘などはガツガツした営業マンといったイメージがあり不安だったが、目の前の男と対峙して佐藤は安堵した。
「全然構いませんよ」
「ありがとうございます、では早速なんですが」
分厚い鞄の中から資料を取り出すと、一つ一つ丁寧に説明してくれた、その内容は小峠から聞いたものと概ね一致していたが、佐藤は初めて聞いたかのように相槌を打った。
「わかりました、では僕もお願いします、それで金額なんですが」
佐藤が昨年の賞金王だということは当然知っているだろう、ならばそれ相応の額をふっかけられるかも知れない、小峠は毎月十万、もしかしたらそれ以上を――。
「一万円からですので、まずはそこからで如何でしょうか」
白石は額の汗を拭きながら申し訳なさそうに提案してきた。
「え、一万円で良いんですか」
拍子抜けだった、白石は続ける。
「百人が一万円出しても、一人が百万円も同じ金額です、しかし前者の方が会社にも個人にもリスクが少ない、その点でネームバリューがある選手が入会してくれるのはありがたいですよ、佐藤選手は若手の憧れですからね」
「いやでも、一万円じゃあ、三万だします」
仮にも昨年の賞金王が最低額の一万円じゃあ格好つかない、得意の見栄っ張りが顔を出すと白石はありがたそうに何度も頭を下げた。
必要書類に署名して捺印を押すと、ほんの一時間程でファストフード店を後にした。
「寿木也さん、こんにちは」
白井の止めた駐車場まで一緒に歩いていると、聞いた事がある声に呼び止められた。
「おお、武志か」
そう言えば南口はキャバクラ街だ、キャッチの武志が居ても何ら不思議はなかった、時刻は夜の七時、ネオン街が活気づく時間帯になりつつある。
「どうですか一件、お連れの方と」
武志が佐藤の連れに水を向けると、白石は申し訳なさそうに頭を下げた。
「すみません、車で来ているもので、それにこれから会社に戻りませんと、では佐藤選手、本日はありがとうございました」
白石は何度も頭を下げながら駐車場がある方に歩いて行った。
「何者ですか」
「あー、保険屋さん?」
武志は耳に付けたインカムを軽く叩くと神妙な顔つきになる。
「盗聴器ですね」
「へ」
「あの男、盗聴器仕込んでますよ」
突拍子のない発言に佐藤は思考が追いつかない、どういう事かと武志に詰める。
「盗聴器は会話の傍受、つまり盗み聞きする為のアイテムですが、サラリーマンが不正をしない様に会社から持たされている、とは考え憎いですね」
だとすれば何だと言うのか、考えても分からないので武志に先を促した。
「いや、それは分かりませんがあの男、カタギの人間じゃありませんよ」
「ちょっとまて、ちょっとまて、盗聴器とかカタギじゃないとか、お前の想像だろう」
あいつは本物の天才だと、姉の絵梨香に言わしめる武志は佐藤が理解する前に話をどんどん進めてしまう。
「前に客から盗聴器を仕掛けられたキャストがいまして」
キャストとはキャバ嬢の事だ、彼女らの安全を護るのもキャッチの仕事だと言う武志は、それからは探知機を持ち歩いていたが、邪魔になるのでインカムに内蔵したらしい、盗聴器の電波を拾うとアラームがなる仕組みだ。
「そのセンサーが反応したと」
「ええ」
「それで、カタギじゃないってのは」
見たところ小指もあったし、刺青はまあ、分からないが、あの風貌には想像出来なかった。
「はは、そう言う意味じゃないですよ、まともな仕事をしている人間じゃないって事です」
益々わからくなかった。
「僕の方で少し調べましょうか」
佐藤は白石と接触した経緯と、先程受け取った名刺とパンフレットを武志に預けた。
「二日ください」
それだけ言うと武志は夜のネオン街に颯爽と消えていった。
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賞金王と呼ばれた男 第十三話 三角関係
「あー恥ずかしい」
莉菜はお昼を過ぎても布団にくるまったまま、先日のラブホテルの出来事を思い出して赤面していた、勝手に妄想した上に勘違いしてとんでもない行動に出てしまった。
自分のセリフ、佐藤のセリフを脳内に蘇らせる。
『関係なくない、好きな子が涙を流してたらほっとけないだろ』
好きな子――。
えっ、私の事だよね、えー。莉菜は枕を抱きしめたままベッドの上を左右に転がり回る。
『ほっとけないだろ――』
カッコよ、佐藤寿木也カッコよ。
莉菜はスマートフォンを手に取りフォトギャラリーを開く、先日、星野屋で撮影した写真だが写っているのは佐藤と莉菜の父親だった、記念撮影を撮るように頼まれた物を保存しておいたのだ、指先を画面に当てて佐藤をアップにすると、莉菜はニヤけたまま枕に顔を埋めた。
『舐めてあげる、私上手いんだよ』
ハッ、と枕から顔を上げた顔が今度は青褪める、なんてことだ、あれじゃあまるで淫乱女だ。絶対引いているに違いない、そう言えば三日前に送ったラインの返事がない。
斡旋ではないはずだ、佐藤の情報は競艇のウェブサイトで常にチェックしている、やはりもう連絡をくれないのかも知れない、するとスマートフォンが震えてラインに未読が付いたので慌てて開く。
『響子ちゃーん、今日同伴しなーい?』
「しねーよ」
もう辞めよう、好きな人が出来た今、キャバクラで働く意味はない、彼以上に好きになる事なんて今後一生無いような気さえした。
再びスマートフォンが震える。
「しつこいな、行かないっつーの」
『返事遅れてごめんね、ちょっと事故っちゃって入院してる』
「ええー!」
佐藤からのラインを見て莉菜は布団から飛び起きると、凄まじいスピードで返事を打つ。
『寿木也くん大丈夫? どこの病院』
なかなか既読にならない、もしかしてラインを見るのも困難な程の大怪我をしてるんじゃ、様々な妄想をする事一時間、やっと返信がきた。
『大丈夫だよ、大したことないんだ、病院は埼玉中央病院だよ』
メッセージを確認するや否や慌ててメイクをして私服に着替えた、全身鏡に映る膝上二十センチのミニスカートを見て莉菜は考えを巡らせる。
病院にはご家族がいるかも知れない、あまりはしたない格好よりも清楚な方がウケが良いだろう、結婚前に悪いイメージを持たれたくない。
まだ付き合ってもいないのに、結婚の心配をしながらクローゼットの中を物色したが、莉菜の私服はギャル系の露出が高い物しか無かった。
自分の部屋を出ると姉の部屋に無断で侵入した、誰もいない部屋のクローゼットを開けると白のワンピースとピンクのカーディガンを手に取り自分の部屋に戻る。
幸いな事に、似たような体型なのでサイズは同じはずなのだが胸の辺りが苦しかった、無理矢理背中のファスナーを閉じるとカーディガンを羽織る。
まだ一月なのでこれだけでは寒過ぎるが、この格好に合わせるコートが無い、仕方なく寒いのを我慢する事にした、どうせタクシーだ。
スマホアプリで迎車タクシーを家の前まで呼び出すと、運転手に駅前までお願いしますと告げる、まずは駅前の花屋でお見舞い用の花を買わなければならない。
「いらっしゃいませぇ」
「お見舞い用のお花をお願いします」
「どれくらいでお作りしましょう」
どれくらい、と言うのが予算だと気がつくのに少し時間がかかった
「どれくらいが相場なんですか?」
「お友達なら三千円から五千円くらいですね」
友達がその金額なら恋人、いや未来の旦那様が同額という訳にはいかないだろう、莉菜は店員の眼前にピースサインを突き付ける。
「じゃあ、二万円で」
「え」
「いえいえ、大丈夫です、こう見えて稼ぎは中々……ええ」
「いや、だいぶサイズが、まあ分かりました」
莉菜は支払いを済ませると待たせてあるタクシーに戻る、アレンジメントに三十分程かかると言われたので待たせておくのは申し訳ない。
「運転手さん、ごめんなさい、時間かかるみたいなので精算しちゃいます」
「いいよ、いいよ、待っててあげる、メーターも止めとくよ」
おでこの辺りから禿げ上がった人の良さそうな運転手が、後ろを振り返りながら言った、好好爺と表現するには若過ぎるかも知れない。
「え、でも」
「あんた星野屋さんとこの娘だろ、茂とは飲み仲間なんだよ」
「あ、お父さんと、えー、じゃあ甘えちゃおうかな」
「随分と美人になっちまって、見違えたよ」
「でしょー」
小さな頃は姉とお店の手伝いを良くしていた、手伝いと言っても常連客のマスコットみたいなものだが、おそらくこのオジサンもそんな客の一人なのだろう。
指定された時間通りに花屋に顔を出すと、想像していた三倍の花束がレジカウンターに鎮座していた、まさかアレではあるまいな、先程対応してくれた店員が笑顔で話しかけてくる。
「では、コチラになります」
莉菜が抱えるとほとんど前が見えない、花と花の隙間から前を確認しながらタクシーに向かった。
「随分と立派な花束だなあ、誰かのコンサートでもあるのかい」
運転手のオジサンに曖昧に返事をすると目的地の病院名を告げた、二十分程で到着して手伝おうかと言ってくれたオジサンにお礼を告げると一人花束を抱えナースステーションに向かった。
「あの、佐藤寿木也さんの病室は」
若い看護師は莉菜が抱えている花束を見て呆れた表情に変わったが、親切に病室までの行き方を教えてくれた、花束を抱えたまま何とか最上階の個室までたどり着いた、流石に有名な競艇選手だけあって団体部屋ではないようだ。
ドアの前まで来ると急に緊張してきた、先日のラブホテル以来、顔を合わせていない。鏡でメイクをチェックしたかったが両手に花束を抱えているので不可能だ。
「寿木也くーん、大丈夫?」
何とかドアを開けて体を病室に滑り込ませた、しかし広い室内には誰もおらず、抜け殻のようなベッドが中央に佇んでいる、莉菜は花束をテーブルに置くとベッドの布団に触れた。
温かい――。つい先程まで寝ていたであろう温度だ、彼はまだ近くにいる、名探偵よろしく一人で推理を楽しむとベットの脇にあるパイプ椅子に腰掛けた。
莉菜はあたりをキョロキョロと見渡して誰もいない事を確認すると布団を顔に押し付けて匂いを嗅いだ。
寿木也くんの匂いだ――。
犬のようにクンクンと布団の匂いを嗅いでいると後ろから扉が開く音がする。
「あれ、なんだよ絵梨香、忘れ物か――、え、莉菜ちゃん?」
莉菜は嗅いでいた布団を瞬時に離して元に戻して椅子から立ち上がる。
「寿木也くん、心配で来ちゃった」
「えー、嬉しいよ莉菜ちゃん、逢いたかった」
逢いたかった――。
莉菜は耳まで真っ赤にして頷いたが、目をあわせる事も出来ないでいた、彼は莉菜の爪先から頭までじっくりと観察している。
「その服装、流行ってるんだね」
「あ、変かな」
「いや、可愛いよ、すごく似合ってる」
白い服だから余計に顔が赤くなるのが目立ってしまう、しかしこれからはお姉ちゃんの店で服を買おうと決めた。
「いつもの服装も好きだけど」
惑わせるわ、惑わせる男なのね、佐藤寿木也。
「具合は大丈夫? どっか痛くない」
「お陰様で、ピンピンしてるよ」
「良かった」
それから二人は他愛もない話をして時間を過ごした、それが莉菜には何より幸せな時間で、この時間が永遠に続けば良いのにと考えていた。
しかしそれは一瞬で終わりを告げる、病室のドアが突然開くと莉菜と同じ格好をした美しい女が突然入室してきた。
「時計忘れちゃったー」
莉菜と目が合うと女はその場で固まり、じっくりと観察するように睨めつけてきた。まったく同じ格好をした人間二人が対峙している、旗から見たら不気味な光景であろう。
「お、時計、何処に置いたんだよ」
佐藤が慌てて話しかけたが絵梨香は聞こえていないのか、聞いていないのか返事をしない。
「ねえ寿木也、明日もお弁当作ってきてあげる、何が良い?」
「明日もってお前」
「私が食べかけのお握りまで食べちゃうんだもん」
「食べかけを……」
莉菜は目の前の女が作った弁当を佐藤が美味しそうに食べている姿を想像した、彼女が食べかけのお握りをちょうだいと言って口にする。
「私だって……」
莉菜は呟いたが声が小さくて誰にも届かない。
「私だって寿木也くんとキスしたもん」
普段の莉菜なら引き下がる所だった、しかし本当に大切な人を手に入れる為に負ける事は許されない、莉菜の本能が訴えていた。
「ちょっと、ちょっと、莉菜ちゃん」
「ふーん」
絵梨香はツカツカとベッドに近づくと上半身を起こしている佐藤にキスをした。
「ん――――――」
佐藤は塞がれた口から声を発したが絵梨香は構わず舌を絡ませた。
「じゃ、またね」
呆然とする莉菜と佐藤を尻目に絵梨香は病室を後にした。
「違うんだ、これは何かの間違い」
莉菜は歯を食いしばって今にも泣き出しそうな顔で佐藤を睨みつけている。
「何が違うのよ」
「あいつは幼馴染で、俺は、あの」
「さようなら」
テーブルの上の花束を佐藤に投げつけると莉菜は走ってその場を立ち去った、室内には花まみれの佐藤と不気味な香りだけがいつまでも病室に取り残されていた。
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賞金王と呼ばれた男 第十二話 安否
「莉菜ちゃん、ちょっと待って」
「早くしよ、我慢できないよ」
莉菜はキスをすると強引に舌を絡ませてきた、初めての感触と甘い香りで理性が飛びそうだったが佐藤はギリギリ踏み留まり体を離す。
「急にどうしたの」
「なにが? エッチしたいんでしょ」
「いや、そりゃしたいけど」
「じゃあ、早くしよ」
佐藤の首に手を回して再びキスをする。
「ん――、ちょっと待って、ダメだよ」
「なんで? 寿木也くんとエッチしたいな」
佐藤は両手を使って体を離すと莉菜の目元にそっと触れた。
「じゃあ、なんで泣いてるの」
莉菜の両目からは涙が溢れている、莉菜の感情が理解出来ない佐藤は性欲よりも戸惑いを感じていた。
「別に関係ないでしょ、ほら触って」
佐藤の手を取って自分の胸に当てる、莉菜は今までに見た事がない辛そうな表情をしているが心の中は読めない。
「関係なくないよ!」
少し大きな声を出すと莉菜はビクッとして佐藤の手を離した。
「関係なくない、好きな子が涙を流してたらほっとけないだろ」
佐藤の言葉に一瞬目を見開いたが、すぐに視線を逸らす。
「フンッ、ヤレればいんでしょ」
「何言ってんだよ、急にどうしたの、おかしいよ」
「私みたいに見た目だけ飾って、中身が空っぽの女を好きになる訳ないでしょ」
莉菜がニットを脱ぐと薄いピンクのブラに収まった形の良い胸が露わになる、短いスカートに手をかけて止まった。
「着たままの方が好き?」
佐藤が呆けていると莉菜はしゃがんでズボンのベルトに手をかける。
「ちょっ、やめ」
「舐めてあげる、私上手いんだよ」
佐藤は莉菜の両脇を抱えて強引に立たせるとベッドに座らせた、涙は流していないが目は真っ赤だ。
「ちゃんと説明してくれないかな」
「なにを」
「急にこんな事する理由だよ」
莉菜は嘲笑うかのように鼻を鳴らした。
「こんな事も何も、男と女がホテルに来てヤラない方が不自然でしょ」
「でも、もっとほら、お互いを分かり合ってからさ」
「童貞じゃあるまいし」
数時間前の彼女と同一人物とは思えない程冷めた目をしていた、自分が何かしたのだろうか、身に覚えがない。
「童貞だよ」
「え」
「悪かったな、童貞だよ、二十二にもなって童貞だよ、あと八年で妖精だよ!」
三十歳まで童貞だと妖精になるという都市伝説が地元にはあった。
「えっ、でも彼女とは」
莉菜は明らかに戸惑っていた。
「いないよ、ずーっと……」
佐藤は高校時代は毎日野球の練習に励み、卒業するとすぐに競艇の養成所に通った、一年間の合宿で毎日地獄のトレーニングが課せられる、卒業するとはやく上達する為に毎日を訓練に費やした。努力の甲斐があって史上最年少で賞金王になれたが、女っ気が無いままに二十二年の歳月が過ぎていた。
「キスしたのも初めてだし」
「え、あの、でもお姉ちゃんの店に彼女と」
「幼なじみだよ、付き合うとか全然ない」
「そんな……」
莉菜は急に恥ずかしくなったのか脱ぎ捨てたニットをを拾うと胸元を隠した。
「ごめんなさい、あたし……」
莉菜は泣きながら何故こんな行動に出たのか話してくれた、その理由を聞いて佐藤は申し訳ない気持ちと嬉しい気持ちが混ざり合う。
「俺がお姉さんにちゃんと否定しなかったから」
「ううん、わざわざムキになって否定する人のが少ないよね」
問題が解決すると別の問題が佐藤に襲いかかってくる、胸元を隠しながら座るミニスカートの莉菜は妖艶で、見ていると興奮してきてしまった。
『舐めてあげる、あたし上手いんだよ』
あれか、エロ動画で行われている、あれの事なのか、こんな可愛いお口でアレをアレして――。
「寿木也くん……」
「あ、ああ、良かったよ誤解が解けて、じゃあ帰ろう」
危ない危ない、これでやらせてくださいなんて言ったら彼女が言う通りの男になってしまう。
「うん」
やっと笑顔になった莉菜をみて佐藤は正しい選択だったと満足した――。
「うーん、莉菜ちゃん」
夢から目が覚めると真っ白な天井が視界に入った、見慣れない光景だったがどうやらベッドに寝かされているようだ、記憶が曖昧で何故ここにいるのか思い出せない、お腹の辺りに圧迫感があるので目をやると母の涼子が突っ伏して眠っていた、よだれを垂らしている。
「母ちゃん重い」
「ん、あら、目が覚めたのね」
周りを見渡す限りどうやら病院のようだが小さい頃から病気も怪我もした事がない佐藤には確信が持てなかった。
「おれ、なんで」
「練習中に事故をおこして気を失ってたのよ、二日も寝っぱなし」
「え、二日も」
そうだ、戸田競艇場でチルト3で回る練習をしていた、段々と艇のかかりが悪くなって最後は回りきれずに壁にぶつかった所から記憶がない。
「あなたの先輩、えっと、桐野くんが連絡くれたのよ」
緊急連絡先に実家を記載しておいたので連絡してくれたのだろう、桐野さんに危ないから止めろと止められた事を思い出して申し訳ない気持ちになる。
「そっか、俺のスマホある」
練習の後に地元の連中と飲みに行く約束をしていたので連絡が取れずにさぞや心配しているだろう、グループラインを開く。
『寿木也死んだか』
『死んでるな』
『刺されたんじゃねえか』
『やべー』
だれも心配していなかった、そう言えば二、三日連絡を取らない事も、飲みをドタキャンするのも良くある事でさして珍しくない。
舌打ちしながら他の未読を開く、広告ばかりの迷惑ラインの中で星野莉菜の名前を見つけて安堵した。
『お疲れ様、練習どうですか、あまり無理しないで頑張ってね』
可愛い猫のスタンプが励ますような動きをしている、誤解も解けたようで良かった。
『返事遅れてごめんね、ちょっと練習中に事故っちゃって入院してる』
病気で寝込んでるスタンプを付け加えた、時刻は午後の二時、なにより腹が減っていた。
「先生呼んでくるね」
今年で幾つだったろうか、結構遅めの子供だったからもう六十歳は超えているだろうに、息子の目から見ても涼子は若々しかった。
若さの秘訣はなにかと姉が尋ねてるのを聞いた事がある。
「パパが若い女好きだから、浮気されないようにね」
なんだそりゃ、と姉の直子は呆れていたがそれだけ今でもラブラブな夫婦なのだろう、羨ましい。
俺も莉菜ちゃんと――。
坊主頭に白衣、やたらと目力がある先生が部屋に入ってきた、有名な歌舞伎役者に似ている。
「佐藤さん、どうですか気分は」
声まで似ている、おそらく意識しているのだろう。
「いやー、よく寝たなぁって感じです」
感じたままを伝えると歌舞伎の先生が微笑む、強面が笑顔になるとキュンとするな、参考にしよう。
「それは良かった、念の為に精密検査をしますが何もなければ二、三日で退院出来ますよ」
「どうもありがとうございます」
涼子が深々と頭を下げると先生は部屋を後にした、それにしても腹が減った。
「母ちゃん飯は」
「病院から出ると思うけど、まだ早いわね、じゃあ私は夕飯の支度があるから帰るわね」
ちゃんと絵梨香ちゃんにお礼言っとくのよ、と付け加えて涼子は病室を後にした。
「絵梨香にお礼……」
なんの事がわからずボケーっとしていると、病室の扉が開いて白いワンピースを着た女が花瓶に生けた花を持って入ってきた。
「キャッ!」
上半身を起こして呆けていた佐藤を見て、絵梨香が小さな悲鳴をあげた。
「なによ、起きてたの」
「ああ、それよりお前……」
いつもパンツルックで可愛らしい服装を好まない絵梨香が、ノースリーブのワンピースを着ている。
「デートか、これから」
「ま、まあね、そうなのよ」
「へー」
爪先から頭までじっくりと観察する、スタイルが良いのでワンピースがよく似合う、それにしてもこんな男ウケするような格好する事が意外だった。
「もしかしてずっと」
おそらく連絡したのは涼子だろう、ご近所なので家族ぐるみで仲が良い。
「ちょうど暇だったからね、それにしても御守りも当てにならないわね」
「いや、持ってたから軽傷ですんだのかも」
「具合はどうなのよ」
「腹が減った」
お腹をさすると絵梨香が小さな鞄からラップに包まれたお握りを取り出した。
「あたしの残りだけど食べる?」
「いるいる」
絵梨香が放ったお握りを右手でキャッチしようとすると、ポトリと布団の上に落ちた。
「何やってんのよ野球部」
「ああ、悪い悪い」
「じゃあ、あたし帰るわ」
絵梨香はピンクのカーディガンを羽織ると、はにかんだ笑顔を佐藤に向けてワンピースの裾を摘んだ。
「これ、似合ってるかな」
淡い服の色のせいだろうか、クールな印象の絵梨香の顔が優しく見える、普段あまり見せない笑顔にドキッとした。
「ああ、可愛いよ」
「へへっ」
照れ笑いを残して病室を出て行く彼女、さぞや良い男とデートなんだろうと考えると、佐藤は少しだけ嫉妬した。
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賞金王と呼ばれた男 第十一話 闇競艇
「五号艇の西野か六号艇の真田に一億」
白石浩二が言葉を発するとその場に緊張が走る、実業家、政治家、芸能人、宗教家、有名スポーツ選手にしても一億円は失って笑っていられるような金額ではない、ちなみにここに実業家の類は少ない、彼らは仕事自体がギャンブルなのでハマる事も少ないからだ。
「白石さん、正気でっか、一号艇は一昨年の王者の新庄朋也ですよ
元プロ野球選手の玉田が不気味な笑みを浮かべながら、競艇新聞のデータ欄に目を落とす。
「ええ、しかし同じ人間にかけても面白くないでしょう、それにB級の五.六号艇は二艇賭けが出来るメリットがありますから」
闇競艇の特別ルールで五号艇と六号艇がB級選手の場合はどちらが来ても当たりになる、内側有利の競艇において圧倒的に不利な外側にメリットを持たせるための措置だ。
「はは、流石はギャンブラーや、では私は新庄に一億」
黒服からそれぞれB5サイズのタブレット端末が渡される、玉田は事前に説明を受けていた通りに海外のカジノサイトにログインすると一億円を入金して黒服に手渡した、彼らは二人が入金したのをチェックするとセカンドベッドの確認をする。
「レイズはよろしいですか」
「俺は構わんが、白石さんはどうでっか」
「お互いに腹を探り合っても仕方ない、今日の有金は五億です。そこまでなら付き合いましょう」
玉田は息を呑んだ、同時にイカサマの可能性について考える、この面子で一号艇の新庄が負ける事自体があり得ない、しかし、もし負けるとしたら角の四号艇の捲り、どの道B2の西野と真田が勝つ確率は圧倒的に低い、最悪ドローと考えるのが普通だろう。
「よっしゃ、じゃあ五億でいきまひょか」
都内にある雑居ビルの地下で闇競艇は開催される、開催日程は不定期だが賭けが行われるのは戸田の最終レースと決まっていた、戸田競艇場に決まっているのは理由がある。競艇は内側有利と言われているが戸田に限っては当てはまらない、他の場が一号艇の勝率が六十%を超えるのに対して戸田は四十五%程度だ。一着だけを当てる闇競艇においてはどの艇が勝つかバラけた方が盛り上がる。
しかし通常一レースに五億円も突っ込んだらオッズが偏り、当たっても払い戻しがない事態に陥ってしまう、そこで闇競艇では完全一対一ルールを採用、最低ベット額は一億円で上限は対戦者同士の話し合いによって決められる。
勝った方の総取り、今回は五億円で決まったので当たれば十億、主催者側には五%の五千万円を支払う決まりだ。
一見するととんでもない額のテラ線(運営が手にする利益)に感じるが競艇を始めとした公営ギャンブルのテラ線は二十五%、パチンコは二十%、宝くじに至っては五十五%も搾取されているので五%はかなり良心的だ。
百インチのモニターでは戸田競艇のパーソナリティがゲストに元ボートレーサーを迎えて最終レースの展望を解説している、白石は冷めた目でモニターを見つめながら心の中で呟いた。
『もう決まってるんだよ』
レースが始まると玉田は食い入るように画面を凝視していた、先程から平静を装っているが種銭の五億を現在会社員の奴がどうやって用意したかは調べが付いている、横領だ、中堅ファンドに元プロ野球選手の肩書を買われ広告塔として雇われた、実質No.3の玉田は自信の身の丈に合わない額を海外のカジノで溶かした、やがて会社の金に手を付けるようになり、後戻り出来ない所まで行く前にスカウトした。
海外のカジノは上客の卵が湧くほどいる、常にリクルートを怠らずにスカウティングしなければならない、闇競艇を運営する組織『ヘルメス』の為に。
『雲一つない冬空の下、本日最終カードの六艇がピットアウトしました――』
無事にピットアウトした一号艇の新庄に玉田は内心ホッとしているに違いない、滅多にないが絶対有利な一号艇をピット離れが遅れて他の艇に取られてしまう、そんな所も競艇の醍醐味だ。
『一番、二番、三番、ダッシュに引いて四番、五番、六番が今一斉に――スタートしました、が、おーっとコレは早いスタートがあった模様です、お手持ちの投票券は無くさないよう大切にお持ちください、四号艇はフライングの為失格、お手持ちの――』
戸田競艇場ではさぞや怒声が響いているに違いないが地下闇競艇には届かない、隣にいる玉田は口を開けたまま呆けている。
例えば陸上競技、水泳などはフライングするとその選手は失格になり競技はやり直しになる、しかし競艇はそうならない、何故だかわからないがフライングした選手は失格になるがレース自体はそのまま続行される。
競艇とはいかに引き波に入らないかがレースの鍵になる、引き波とはボートが走った後に出来るキャビテーション(泡)の事だが引き波に入るとプロペラが空回りしてボートが前に進まないのだ、前の艇を抜くのが難しい理由がそこにある。
一番前を走っていれば引き波はない、なのでキャビテーションを起こす事なく進んでいける、しかし二着の艇は先頭の引き波を、三着の艇は先頭と二着の引き波を、つまり後続になればなるほど引き波は増えて走りにくくなる。
今回の場合、四号艇がフライングをして一番前にでた、内側にいる一、二、三号艇の前を被せるように回るので内にいた艇は四号艇の引き波をモロに食らって後退する、四号艇の外側にいた五、六号艇は被される事はないので引き波を避けるように回る、当然一マークを回った時には四号艇がトップを走り後続に五.六号艇がついて行く形になるが四号艇は失格なのでレースから離脱、自然と五、六号艇の勝ちが決まった。
「いやいや、まさか新庄がやられるとは」
「イカサマや、こんなんイカサマやろ」
「何故ですか」
「こんな都合よくフライングするかい」
「そう言われましても」
「玉田様、すみませんが」
黒服はタブレット端末を操作すると玉田に手渡した、先程まであった残高五億円の所が0になっている。
「ふざけるな、返せ、その金はあかん」
稀に見かけるお決まりの光景を見るたびに白石は不思議に思った、あかん金なら何故ギャンブルに賭けてしまうのだ、当たるかどうかも分からないギャンブルに。
闇競艇の会場は全国三十ヵ所に及ぶ、一日の最高売上、売上と言うのは語弊があるが最高ベッド金額は全場で五百億円、五%の二十五億がヘルメスの取り分だがここからイカサマに協力した人間達に支払う金額がおよそ三億円あるので純利益は二十二億円程だった。
「ふざけるな、こんなん無効や、お前らイカサマで訴えてやる」
ここまで駄々をこねる人間も珍しい、まさか我々がまともな組織だと思っているのだろうか、訴えた所で証拠はない、会場は一回毎に移動しその会場まですら目隠しとヘッドホンで特定されないように連れてくる。
仮に現場に警察が踏み込んで来たとしても会場には大型のモニターしかない、現金でのやり取りなどもっての外だ。
「玉田さん、それだけは止めておいたほうが良い、あなたの家族だけでなく周りにも被害が及ぶ」
闇競艇のゲストは徹底的に身元を調査される、基本的には一億、二億の負けでガタガタ言うような人間はいないが、今回はどうしてもゲストに空きが出る所だったので玉田に白羽の矢を立てた。
大人しくなった玉田に黒服が目隠しとヘッドホンを装着する、このまま車に乗せられて何処か都内の駅に落とされるが、これからの彼の人生を考えると同情した。
最後はきっと勝つはず――。
闇競艇に限らずギャンブルで破綻する人間の共有意識は何故か自分の都合の良いよう考えるところだ、普通にやればギャンブルは負けるように出来ている、そんな簡単な計算も出来ない人間が小遣いの範囲内で遊んでいれば良いが、一定数の割合で使ってはまずい金にまで手を出す。
彼らは頭が悪いから、儲ける為に始めたはずのギャンブルが何時の間にか負債を返済する為に変わっている、ギャンブルをしなければ無かった負債を返済する為にまたギャンブルをして破綻する。
チンパンジーくらいの偏差値しか無いのではないか、高学歴の白石は考えたが、チンパンジーを相手に国が堂々と公営ギャンブルと銘打って財政の一部にしているのだから酷いものだ。
「まったく見苦しいな」
玉田が連れ出されると奥の部屋から仕立ての良いスーツに細いメガネを掛けた上司の宇野が出てきた、監視カメラでモニタリングしていたのだろう。
「申し訳ありません、あんな男しか捕まらなくて」
「ゲスト不足の原因はなんだと思う」
「不況でしょうか」
馬鹿な答えを返してしまったことに後悔したが宇野のプレッシャーに頭がうまく回転しないのはいつもの事だ。
「まあ、それも有るだろうが、スターの不在だな」
「スターですか」
「新庄が若い頃なんかは圧倒的なスターだった」
今年で五十歳になる新庄だが未だ実力は衰えていないように感じた、テクニックとは別のスター性の事を言っているのだろう。
「次世代のプロヴァトを探してくれ」
ヘルメスが運営する闇競艇に加担する現役のボートレーサーを組織ではプロヴァトと呼んでいる、彼らは選手になってからスカウトされる即戦力、選手になる前に組織から競艇学校に送り込まれるプロスペクトの二種類がいた。
後者は圧倒的に組織に忠実でリスクが少ない代わりに、イカサマを出来るだけのテクニックを身に付けるかは未知数である、それに比べて前者は既に折り紙付きの実力選手をスカウトするので効率が良い代わりに組織が明るみになるリスクがある、無論そうならないように準備した上で交渉する訳だが、出来ればプロスペクトからスターが誕生してくれる方がありがたい。
新庄はプロスペクト出身だ――。
「佐藤寿木也……」
「さすが白石くんだ、情報にヌカリがない、期待しているよ」
それだけ言い残すと踵を返して部屋を出ていった、与えられた無理難題に辟易したが功績を挙げるにはまたとないチャンスだ。
スマートフォンを取り出して耳に当てる、佐藤を監視しているプレヴァトは直ぐに電話に出た。
「はい」
「忙しい所悪いな、どうだ佐藤の容態は」
「精密検査の結果はまだですが本人は至って元気です、すぐにでも退院するでしょう、ただ」
「ただなんだ」
「右手に違和感があると」
まずい、ハンドルを握る手に障害を抱えてしまったら元も子もない。
「岸に叩き付けられた時に強打したようですが、普通に食事しているので問題はないかと」
佐藤の練習用ボートに細工して事故を誘発するように指示したのは白井だ、これからの交渉を上手く進める為に画作したが思いの外大きな事故になってしまった。
基本的に上の指示を仰ぐ事なく仕事を進める権限が白石には与えられていたが、大切な商品を壊したとなったらタダじゃ済まないだろう。
「そうか、引き続き監視を続けてくれ、退院したら近々コンタクトを取りたい」
「お言葉ですが、奴が組織に従うとは思えませんが」
「それはやり方次第だ、お前が考える事じゃない」
「我々だけではダメなんですかね」
幹部がダメだと言ってるんだよ、お前たちじゃ客が取れないと、そう思っても口には出さない、部下のプライドを尊重するのも上司の務めだ。
「ああ、良くやってくれている、しかし若い力も入れていかないとな」
「そうですか」
まだ納得がいかない様子だがこれ以上は時間の無駄だ、また連絡すると言って通話を終えた。
白石は革張りのソファに座るとタバコに火を付けた、黒服がすかさず灰皿を用意する、今どき紙のタバコを吸っているのは組織でも白石くらいだが、しかし、と考える。
悪の組織が禁煙なんてするかバカ――。
灰皿にセブンスターを押し付けるとソファから立ち上がりコートを羽織る、初めてきたこの会場に再び訪れる事はない、黒服に声をかけて扉を開けると地下駐車場に向かった。
真っ白のポルシェ・カイエンに乗り込むとエンジンを始動させて再びタバコに火をつけた、佐藤寿木也のスカウティングが決まればまた一つ上のステージに上がるだろう、次はベントレーに乗り換えるかと想像すると笑みが漏れる、シフトレバーをドライブに入れるとカイエンは軽快に走り出した。
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賞金王と呼ばれた男 第十話 事故
「なにしてんだ、あの天才は?」
佐藤の師匠である小峠亮太は休日にも関わらず、戸田競艇場の水面でターンの練習をする弟子を見ながらため息をついた。練習熱心なのは良いことだが体を休めるのもプロの仕事だ。
「チルト3で回る練習だそうです」
佐藤の兄弟子である桐野裕太が関心したように水面を眺めている、チルトとは艇に付いているプロペラの角度の事で、マイナス0.5〜プラス3.0まで調整出来るようになっている。
「はぁ?」
「つまり、チルト3で戸田を回れたら俺は無敵、りなちゃんは俺のもの……だそうです」
チルトの角度が高くなるほど艇先が上がり水面との接地面積が少なくなる、つまりスピードが出る、その代償として安定感が失われ曲がるのが非常に困難になる。
実戦では殆どの選手がチルトをマイナス0.5に調整していた。
「今度あいつに心の声が漏れてる事教えてやれ、とにかくすぐにやめさせろ、危ねえだろうが」
水面の幅が狭い戸田競艇場ではチルト角度プラス0.5が最高角度でそれ以上の調整は禁止されていた。
ピットに戻ってきた佐藤に桐野が話しかけている、二人は少しばかり談笑すると佐藤は再び水面に戻っていった。
「自分は小峠さんと違って空気抵抗があるからもっと練習しなきゃだそうです」
「だれの頭が空気抵抗ゼロだ、それにヘルメット被るんだからハゲ関係ねえだろ」
水面上の佐藤は艇を自在に操っていた、二人はその光景を見て感心している。
「あれ本当にチルト3なのか?」
「そのはずですが」
「戸田競艇場の上限がチルト3だったらあいつに勝てるやついねえな」
「危なかったですね」
佐藤はターンマークのギリギリを攻めると体を目一杯艇から出して体重をかける、モンキーターンと呼ばれるテクニックで今では殆どの選手が使っているが、佐藤のそれは美しさとダイナミックさが融合し、すでに芸術の粋に達していた。
「次に戻ってきたら本当に止めさせろよ」
「わかりましたよ」
小峠が踵を返して小屋に戻ろうとしたその時、激しい激突音が静かな戸田競艇場内に響き渡った、振り返ると佐藤が乗っていた艇が第二ターンマークを曲がってすぐの壁に激突して転覆していた。操縦していた佐藤は防護壁の横に、打ち上げられたイルカのようにぐったりと横たわっている。
「寿木也――――!」
桐野が救助艇を出して佐藤の元に駆けつける、小峠は急いで小屋に戻り救急車を手配すると、ピットに戻ってきた佐藤に声を掛けたが返事はない。
「あまり動かすな」
周りの人間に指示すると佐藤のヘルメットを脱がして脈を測る、どうやら正常だが頭を強く打っているかも知れないので油断は出来ない、すぐにサイレンの音が近づいてくると救急隊員がやって来てタンカに乗せて運び出した。
「すみません、俺がさっき止めておけば」
「バカ野郎、自己責任だ、お前は佐藤の知り合いに連絡してくれ、俺はコイツに付いていく」
「わかりました」
救急車がハッチバックを閉めるとサイレンを鳴らして走り出した、小峠は救急隊員と共に乗り込んで佐藤の手を握る。
「おい、寿木也、大丈夫か」
すると佐藤の手は小峠の手を握り返してきた。
「おい、わかるか、俺だ」
「うっ、うーん、りなちゃん……」
小峠は握っていた手を離すと軽く頭を引っぱたいたが、気絶しているはずの佐藤の顔は終始ニヤけていた。
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賞金王と呼ばれた男 第九話 空っぽな女
夕方五時、赤羽の駅前は沢山の人達で賑わっていた。ギターを演奏しながらスタンドマイクで歌を歌う売れないシンガー、真冬なのによれたシャツ一枚でウロつく老人、ロータリーではワンボックスの車が何故か窓を開けながら洋楽を爆音で聞いていた。
一応東京都を名乗っているが電車で一駅乗れば埼玉という立地は、洗練された都会の雰囲気とはかけ離れている。
莉菜は赤羽駅から埼玉方面に三駅離れた蕨で生まれ育った、両親は赤羽の商店街で寿司屋を営んでいる、赤羽にしては高級な江戸前寿司を出す『星野屋』は贔屓目にも美味しいネタを出した。高校時代は赤羽の女子校に通い、放課後はもっぱら池袋に集合してギャル仲間と何をする訳でもない日々を過ごした。池袋には埼玉県民が集まると言うのは本当なのだ、その頃の友達とも今では殆ど合うこともなくなったが、いい思い出だった。
空っぽの人間――。
莉菜が自分に対する評価はいつもこうだったが、周りにいる人間もまた空っぽに見えたので安心していた。
高校時代に付き合った大学生の彼氏を一度『星野屋』に招待した事がある、父は彼氏に何か将来の夢とか、やりたい事はあるんですかとたずねた。
「特にありません、フツーに生きてれば」
父は笑っていたが寂しそうな目をしていた、空っぽの人間と空っぽの人間が結婚したらどんな子供が生まれてくるのだろう、想像すると怖かった。
父は夢だった自分の店を持ち、母は大好きな父の仕事を手伝う事を生き甲斐にしていた、二つ年上の姉はアパレルショップを開くのが夢で今は新宿のデパートで働いている。
家族でなにも無いのは莉菜だけだった――。
初めて佐藤がお店に来た時に軽口を叩く様子を見て、同じような空っぽ人間だと思った、世の中の人間達の殆どがそうである様に。
しかし彼は違った、テレビの中で優勝インタビューを受ける佐藤は汗と涙で顔がぐちゃぐちゃになり、せっかくのイケメンも台無しだった、インタビュアーの質問にもまともに答える事が出来ない姿が返って莉奈の心に響いた。
努力して力の限り生きた人だけが流せる涙だと思った。
私とは違う――。
どんどん彼に惹かれていくのはわかっていた、しかし緊張してしまってうまく話す事が出来ない。こんなことは初めてだった。
そこで今日は『星野屋』に招待する事にした、味には自信があるし自分のホームなら少しはリラックス出来ると考えたからだ、両親に合わせたい気持ちもある、星野一家は恋愛に対してオープンだ。
「莉菜ちゃんお待たせ、待った」
時間ぴったりに現れた佐藤は昨日、いや、今朝と同じ格好だった、一度も家に帰っていないのだろうか。
「ううん、今来た所だよ、お寿司で良いかなあ」
「寿司大好き、やったね」
良かった、これで寿司が苦手だったら次の手がなかった、もっとも彼は寿司が苦手だとしても嘘を付いて付き合うに違いないが。
商店街に入ると二分程で『星野屋』に到着した、見慣れた光景なのに心臓がドキドキする。
「あのね、ここなんだけど」
「おー、星野屋さん、知ってるけど入った事ないよ、高級そうだから」
ハハッと頭を掻きながら笑った。
「あたしのお父さんがやってるの」
「え、り、り、莉菜ちゃんの父上の店って事?」
父上、思わず吹き出しそうになったが何とか堪えた。
「そうなの、ゆっくりしていって」
「う、うん、はい」
どうしよう、彼がアワアワしてる、いくら何でもいきなり両親に合わせるのは急過ぎたか、しかし今更後には引けない。莉菜は入口の格子戸をカラカラと開けた。
「へいっ、いらっしゃい! って莉菜じゃねえか、そうだ来るって言ってたな、おう好きな所座んな」
白木のカウンターからお父さんが威勢よく声をかけてきた、カウンター十席、座敷三席の小さなお店だ。
「テーブルの方が良いよね?」
「あの、あの、あの、私、お父様、えっと」
大変だ、彼が緊張のあまりおかしな事になっている。ちょっと面白いが冷静にさせなければ。
「えー!」
お父さんのデカい声が聞こえてきたかと思うと、一度裏に引っ込んでカウンターから出てきた、佐藤の顔をマジマジと見つめている、確かにイケメンだがそんなにじっくり見なくても。
「佐藤選手ですよねえ」
「え?」
「最年少賞金王、佐藤寿木也選手」
「あ、はい、そうです」
「うわー、まじか、え、莉菜とお付き合いしてるんですか」
「えっと……」
「ちょっと、そんなんじゃないから、お友達」
すかさず否定すると彼の顔が一瞬悲しげになった。
「いやー、すごい活躍で。いや小汚い店にようこそ、さあコチラに座った座った」
お父さんは勝手にカウンターのど真ん中に彼を座らせると莉菜を無視して話しだした。
「誰なのよ」
いつの間にか横にお母さんが立っていた、手にはおしぼりを持っている。
「えっとね、競艇、の選手なの」
「競艇って、船が走るやつかい」
「そうそれ」
「ふーん、で、なんで父さんはそんな選手を知ってるのかねえ」
確かにお父さんが競艇、いやギャンブルをやるなんて聞いたことがなかった、競艇をやらない人でも知っているくらい有名な選手って事だろうか。
「おう、ちょっと母さん、暖簾しまってくれ、今日は貸し切りだ」
「え、ちょっとお父さん駄目ですよ」
「良いんですよ、佐藤選手を赤羽の下衆い連中と一緒になんて出来ませんぜ」
「お父さん、僕もバリバリの赤羽出身です」
「おっとそうだった、こりゃあ失礼」
結局、暖簾はしまわれて店は臨時休業になった。
「佐藤選手、なんか苦手な食べ物あるかい」
「いえ、大丈夫です」
江戸前寿司にサーモンは出てこない、前回の鉄板焼の様にはならないだろう、しかし莉菜はあの時の光景を思い出すと吹き出しそうになった。
「はい、佐藤くん」
「あっ、お母さん、ありがとうございます」
なぜか彼の横に座ったお母さんがビールを注いでいる、これでは全く二人で会話が出来ないが何やら楽しそうな二人を見て諦めた、彼も落ち着いたようだ。
「佐藤くんはすごい選手なの?」
お母さんが聞くと、お父さんがすかさず話しに入ってくる、あんまり喋ると唾が刺し身に――。
「なーに言ってやがんでい、このスットコドッコイが、佐藤選手はなあ去年の賞金王よ、No.1なのよ」
「いえ、そんな大したもんじゃ」
「あら、No.1なの、莉菜と一緒じゃないねー」
「こーのトンチキがぁ、赤羽ごときのキャバクラの一番と史上最年少賞金王の佐藤選手を一緒にするんじゃねえ」
ちょっとちょっとお父さん唾が――。
「あなた、随分競艇に詳しいみたいね」
お母さんに言われるとそっぽを向いて刺し身を切り出した、恐らく店が終わった後に詰められるだろう。
「今日はねえ、新鮮なとり貝が入ったんですよ、莉菜の野朗は寿司屋の娘のくせに貝が苦手でねえ、美味いのに」
まな板の上にとり貝を叩きつけながら彼に話しかけている、叩きつけることで貝の食感が増すのだと昔教わった。 食べられないけど。
「とり貝……」
目の前に置かれたとり貝を見て固まっている、莉菜は一瞬で彼が苦手な食材なのだと気がついた。
「お父さん、後ろの時計狂ってないかな?」
莉菜はカウンターの後ろの壁にかかっている時計を指差した、お父さんが手を止めて後ろを向いたスキに彼のとり貝を自分の口に放り込む。
「何だよ、狂ってないだろ」
「ああ、ごめんね、あたしの時計が狂ってた」
流れるような一連の動きをみて佐藤と、その奥にいるお母さんが唖然とした顔でコチラを見ていた、莉菜は人差し指を口元に当てて黙っているように合図すると、二人同時に頷いた。
店に入って二時間、すでにお父さんも一緒に飲み始めていると格子戸がカラカラと開いた。
「何よ、臨時休業って、いるじゃないの」
姉の夏菜が入ってくる、滅多に店には顔を出さないくせにタイミングが悪い。
「なんだ夏菜、飯か」
「うん、無性に食べたくなる時があるのよ」
「ちょっと待ってな、それより莉菜の彼氏にちゃんと挨拶しろい」
「だから、彼氏じゃ――」
そこまで言って否定するのを止めた、また彼が悲しい顔になったら嫌だから。
「これはご挨拶が遅れました、莉菜の姉で――、えっ」
夏菜が佐藤の顔をみて固まっている、しかし今度は佐藤も夏菜の顔をみて驚いていた。
「あのー、今日お店に来ましたよね?」
夏菜が佐藤にたずねる。
「あっ、やっぱりお店の店員さんですか」
二人の話によると今日のお昼くらいに彼が夏菜のお店に来店したらしい、すごい偶然だがそれよりも気になることが有る、夏菜のお店にはメンズがない。
もしかして私にプレゼント、と思ったが佐藤は手ブラだった、聞いて良いものかどうか迷っていると彼がトイレに行ったスキに夏菜が耳打ちしてきた。
「すごい美人と一緒だったよ」
「え」
「女の方は彼にべた惚れって感じだったし、彼女さん可愛いですねって聞いた時も否定しなかったけど、でもどーせ客でしょ」
「うそ……」
心の何処かで彼も自分のことを好きなんじゃないかと期待していた、勘違いだったのだろうか。
何人もいる女の内の一人――。
彼がそんな器用な男には見えなかったが、夏菜の言葉は思った以上に莉菜の心を動揺させた、その後一時間ほど飲んで店を後にしたが頭の中は整理が付かない、会ったこともない女に嫉妬するなんてどうかしている、でも、説明くらいしてくれても。
鬱陶しい女――。
付き合っている訳でもないのに両親に会わせて、付き合っている訳でもないのに嫉妬して、付き合っている訳でもないのに他の女といた理由を説明させようとしている。
『すごい美人と一緒だったよ』
夏菜の言葉が脳裏にこびり付いて離れなかった。
空っぽな人間の癖にこんな素敵な人に愛されるわけないじゃない、沢山いる女の一人がお似合いよね、体だけの関係――。
今までもそう、見た目だけは可愛く産んでもらった、男は外見だけは褒めてくれる、ヤレる迄は優しくしてくれる、彼も同じ。
莉菜は自分の中で考えを整理すると気持ちが楽になった、隣で楽しそうに話している彼の声はもう莉菜の心に響かない。
「ねえ、寿木也くん」
「え」
「ホテル行こ、今日は寝ないから」
彼の腕に手を絡めると強引に引っ張っていく、莉菜はこぼれ落ちる涙を悟られないように必死に前に進んだ。
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